■ 渡辺崋山 ■ 紙本 肉筆日本画 アウトレット “水仙南天図”(極:渡辺崋石) <230512011>

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(株)賢祥堂美術 オークション
Gallery KENSYODO Auction 
*■ 渡辺崋山 ■ 紙本 肉筆日本画 “水仙南天図”(極:渡辺崋石) <230512011>*



 作品データ

本紙 94cm×26.5cm

軸 148.6cm×36cm


ウブシミ・ヤケ・シワなど見られます。
状態につきましては画像をご参照ください。



渡辺崋山(1793~1841)


江戸後期の武士・画家。
三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。
江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として生まれる。
渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、
父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、
さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。
さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、
幼少期は極端な貧窮の中に育った。
日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。
こうした中、
まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って生計を支えるようになる。
のちに谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、
20代半ばには画家として著名となったことから、
ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。
一方で学問にも励み、
田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、
18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。
また、佐藤信淵からは農学を学んでいる。
藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、
亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、
藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。
こういった生い立ちが
崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。
16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、
納戸役・使番など、藩主にごく近い役目であった。
文政6年(1823年)、田原藩士和田氏の娘・たかと結婚し、
同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を継いだ。
同9年には取次役となる。
ところが、翌10年に藩主康明が28歳で病死してしまい、
藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、
当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。
崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。
結局藩上層部の意思が通って養子・康直が藩主となり、
崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。
しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して、
後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、次の藩主とすることを承諾させている。
また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、
友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。
崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、
のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。
友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に
『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。
優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、
家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。
さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行うなど、藩政改革に尽力。
天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや
『凶荒心得書』という対応手引きを著して
家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、
貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。
また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、
高野長英などと飢饉の対策について話し合った。
この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した
『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。
この会は後に海防問題などまで深く議論するようになり、
その中で崋山は多くの蘭学者の指導者的存在とみなされるようになる。
崋山自身は海防論者を装いながら内心では開国を望んでおり、
モリソン号事件を知るに至り、幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、
これに反対する『慎機論』を書いた。
しかしこの書は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、
モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、
幕府高官に対する激越な批判で終わるという解な文章になってしまった。
田原藩の年寄という自身の立場を考慮し、結局出版はされずに終わったが、
後にこの草稿が蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠になった。
そのために田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送ることとなったが、
崋山の窮状を見かねた門人の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、
その代金を生活費に充てることとなった。
ところが生活のために絵を売っていたとして幕府で問題視されたとの風聞が立ち、
周囲に累を及ぼすことを恐れた崋山は、
「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。

画家としては、年少の頃より生計を支えるために画業を志し、
最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、
続いて白川芝山に師事、後に金子金陵とその師である谷文晁に師事した。
特に文晁からは、画技のみならず文人画家としての生き方も学び、
南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。
文人画は清の惲寿平に強く影響されている。
華山を語る上で最も特徴的なのは肖像画で、
陰影を巧みに用いた高い写実表現は当時から高く評価されており、多くの作品を描いている。


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