アウトレット 曾我蕭白 人物掛軸 蛇足軒  紙本 軸先片方なし 模写 奇想の画家

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カテゴリホビー、カルチャー美術品絵画日本画人物、菩薩状態やや傷や汚れあり(詳細)
曾我蕭白 人物掛軸 蛇足軒紙本 軸先片方なし 模写 奇想の画家商品詳細曾我蕭白 人物掛軸 蛇足軒紙本 軸先片方なし 模写 奇想の画家です




印刷ではなく肉筆ですが真贋はわかりません。


中々良いものではないかと思います。よく描けていると思います。



軸先片方取れています。


光りにかざすと補修箇所チラホラあります。


軸先ふくめない全体的な大きさは180㎝×57㎝程度です。

箱はありません。


曾我 蕭白(そが しょうはく、 享保15年(1730年) - 天明元年1月7日(1781年1月30日))は、江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。高い水墨画の技術を誇る一方、観る者を驚かせる強烈な画風で奇想の絵師と評される。


目次

出自
享保15年(1730年)、京都に生まれる。蕭白の生涯については資料が少なく不明な点が多い。伊勢地方に多くの作品が残ることから、かつては伊勢の出身とされたこともあった。しかし、近年の研究の進展により、「丹波屋」と号する京都の商家の子として生まれ、本姓を三浦と称したことなどが明らかになっている。京都市上京区の興聖寺には、蕭白の代表作『寒山拾得(かんざんじっとく)図』が残るほか、蕭白とその一族の墓もある。兄と妹がおり、兄は蕭白が11歳の時(元文5年、1740年)江戸で亡くなっていることから、丹波屋は江戸に支店を置ける程度の商家であったようだ。菩提寺の興聖寺の所在地が西陣に近いことなどから、丹波屋は紺屋だった可能性がある。寛保3年(1743年)2月に父・吉右衛門が亡くなる。この頃の蕭白は、伊勢の久居の米屋で奉公していたという伝承が残る。さらに永享3年(1746年)1月、母ヨツが亡くなり、丹波屋も潰れてしまったようだ。そして蕭白は孤独のうちに生きることを強いられることとなる。

画系をめぐる諸説
蕭白は高田敬輔や望月玉蟾に師事したとの説が古くからあるが、敬輔の弟子らによって編纂された『敬輔画譜』にある門人録には蕭白の名がなく、証明する文献が無いことから、直接の弟子であったかどうかについては否定的な意見もある。ただ、高田敬輔とその門人たちに特徴的な技法を用いていることなどから、少なくとも高田敬輔の画風を学んだことは間違いないだろうと、高田敬輔研究の第一人者である國賀由美子(滋賀県立近代美術館主任学芸員)は述べている。

また、白井華陽は『画乗要略』(天保2年〈1831年〉)の中で、雲谷派を学んだことを指摘している。確かに蕭白の真体水墨画には、謹直な描線や垂直に切り立った崖の描写など、雲谷派との共通点が認められる。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。その頃曾我派の画系は絶えているが、濃墨を用い、荒々しい筆致で樹木や岩をデフォルメして描く作風を、蕭白は積極的に取り入れていったと思われる。他にも、太い墨線を用いる筆法から白隠の影響を受け、その無法の手法だけでなく、その気魄やユーモアも吸収していると見られる。

画歴
作品も制作時期のわかるものはきわめて少ないが、29歳前後と35歳前後の2回、伊勢地方に滞在したことがわかっている。1回目の伊勢滞在時には、その人柄と出生年を示す逸話が残る[3]。津から二里ほど離れた黒田村の浄光寺に1年ほど滞在していたが、絵を描こうともせず、毎日本堂に行っては昼寝ばかりしていた。ある日、蕭白は朝食もとらずに本堂に籠っていたが、いつものことと放っておいた。ところが、昼になっても夜になっても出てこないので不思議に思って本堂へ行ってみると、その内陣の左右の壁面に「十六羅漢」の図、欄間には「葡萄」の図が描いてあり、蕭白の姿はどこにもなかった。その画には「宝暦九曾我氏三十歳筆」と落款があり、宝暦9年(1759年)に30歳であることが確定した[3]。なお、これらの作品は現存していない。『群仙図』、『旧永島家襖絵』などの代表作は2回目の伊勢滞在時に描かれたものと考えられている。また、33歳時と38歳時には、播磨に滞在していた。安永元年(1772年)頃から亡くなるまでは京都に居を構えた。7歳年上の南画家池大雅と親しく、蕎麦を食べに大雅の家を訪ねたが、話し合っているうちに蕎麦の事を忘れて夜になってしまった。帰る際、大雅が提灯を持たせてあげたいが、家にはそれが無いと済まなそうに言うと、蕭白は円灯に蝋燭を灯し平然と帰って行ったという逸話が残る[4]。反対に円山応挙には思うところがあったらしく、蕭白はある時戯れに「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」と語ったという[4]。

安永4年(1774年)刊行の『平安人物志』には、20人中15番目に載っており、住所は京都上京と記されている。安永6年(1777年)息子が夭折、蕭白も4年後に亡くなる。法名「一輝蕭白居士」。一族と同様に興聖寺に葬られたが、蕭白の絵を好んだ人々が建て、富岡鉄斎が銘を揮毫した墓も残っている。弟子に、画名と作風からその可能性が高い曾我蕭月。また、横山華山や世古鶴皐、神原鳳章斎のように蕭白の画風を慕った幾人かの絵師が知られている。

評価

《唐獅子図》 1764年頃 朝田寺(三重)- 1

《唐獅子図》 - 2
蕭白の特徴は、部分の細密で精確な描写能力と対象の動性の的確かつ大胆な把握にある。構図における大胆な空間把握、顔料の性質を熟知した上になりたつさまざまな独創に支えられた鮮やかな彩色は、相共に強烈な不安定さを生み出し、見るものを魅了しまたおののかせる。江戸時代の画史においてすでに「異端」「狂気」の画家と位置付けられていた蕭白の絵は、仙人、唐獅子、中国の故事など伝統的な画題を、同じく正統的な水墨画技法で描いていながら、その画題を醜悪、剽軽に描き出すなど表現は型破りで破天荒なものであり、見る者の神経を逆撫でするような強い印象を与えずにはおかない。

当時、蕭白の作品は、同時代の円山応挙や池大雅、与謝蕪村ほどではないにしろ、一般の人々に受け入れられていた。蕭白の贋作が多いのは、贋作者のモチベーションを刺激しただけでなく、それだけ蕭白の人気が高かった裏付けともいえる。明治時代以降は評価が低かったが、1968年『美術手帖』誌で連載された辻惟雄の「奇想の系譜」で取り上げられたこと等がきっかけとなり、江戸時代絵画史に異彩を放つ個性的な画家として近年再注目されている。

なお、蕭白については、「異端」「奇想」という側面のみがもっぱら強調され、偏った評価を生んでいたとの反省をふまえ、より多様な視点からの研究が必要だとの指摘もある[5]。

横尾忠則の作品には蕭白の作品を下敷きにして描かれたものがある。『群仙図』から触発されて『消された記憶』、『雪山童子図』からは『二河白道図』などが制作されている。

明治時代には忘れられており、多くの作品が失われたり破損したりしていた。そのため、ウィリアム・スタージス・ビゲローによってこうした作品の多くがボストン美術館に持ち込まれることになり、現在は同美術館が最大の蕭白コレクションを所有している。





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